「わしは東京に出てきてもう60年。わしの経験のひとさじでもお前らに飲ませてやりたい。そうすればわしが経験した苦労の1%いや0.1%だけでも理解できるだろう。このそば屋でお前らのような若僧といっしょに昼飯を食うなんて思っても見なかった。それだけわしは苦労に苦労を重ねてきた。
青森の高校を卒業して集団就職列車に乗ったときのことをいまでも鮮明に覚えている。学生服に身を包み、少しばかりの普段着と下着、タオルや洗面用具を詰め込んだバッグを列車に持ち込んだ。まわりの奴らもだいたい同じようなものだった。将来の夢と不安で頭の中はぐちゃぐちゃになり、東京に近づくにつれそれが発酵して破裂寸前までいった。あと1分でも東京駅に着くのが遅かったらわしの脳みそは文字通り破裂しただろう。
とまで言うと大げさか。とにかく、当時、上京というのは、そう言いたくなるほどの一大事だったのだ。停車前、車窓から見えた高いビル。せいぜい市役所の三階建てビルしか見たことのない田舎者にとって、摩天楼の林立は度肝を抜かれる光景だった。まだ東北新幹線はなく、到着した上野駅は演歌を聞いて思い描いた風景とよく似ていた。たいして大きくもない駅舎は天井だけがやたら高く、そのために内部は薄暗い。物悲しい空気に包まれていたことを覚えている。
就職先企業の本社に向かうため、企業ごとにグループになって路線を乗り換えた。わしは5人のグループで山手線に乗り、池袋で降りた。企業のチャーターしたバスが駅前に待っていて、乗り込むと、別のいくつもの学校のグループと一緒になり、互いにライバルを吟味するような視線でにらみ合った。企業の本社の講堂は高校の体育館より広かった。パイプ椅子がずらっと並べられ、何百人という新入社員が一堂に集められていた。
壇上に姿を現した幹部らのあいさつはまったく覚えていない。緊張してそれどころじゃなかった。覚えているのは何回も立ったり座ったりしたことだ。君が代を歌うために立ち上がり、いったん座ったら今度は社歌を聞くために立ち上がり、会長が登場したら立ち上がり、社長が登場したら立ち上がり、忙しいことだと思った。それがわしの会社人生の始まりだった。あとはわき目もふらず、与えられた仕事を精一杯こなし、上司の評価を受け、部署が変わったらそこの仕事をマスターし、精一杯仕事に励んで業績を上げ、また上司に認められて管理職になり、上からのプレッシャーと下からの突き上げに耐えてまた業績を上げ、気が付いたら定年だった。
わしはほんとうによくやってきたと思う。だれの前に出ても恥ずかしくない人生だった。いまはこうしてタクシーの運転手をしているが、残念なのは昼飯がイタリアンではなくそばだということだ。定年後、わしはイタリアのミラノに移住して優雅な余生を送るはずだった。どこでどう道を踏み外したのかいまだにわからない。まっとうに仕事をしてローンを組んで埼玉に家を建て、三人の子供を育て上げた。人並みの結婚式を挙げてやり、新婚のころは生活の援助も惜しまなかった。その結果がそば屋である。わしは人生で何か間違えたのだろうか。
一緒に移住するはずだった妻は昨年死んだ。ただ、妻は移住などこれっぽっちも望んでいなかった。いまは埼玉の一軒家にわしひとり。仕事を終えて帰ると、冷蔵庫からビールを取り出し、柿ピーをつまみながらイタリア映画を観るのが楽しみになった。移住に興味のない妻はイタリア映画などいっしょに観てはくれなかった。字幕で観ているのだが、いつのまにかイタリア語がわかるようになってきた。不思議なものである。
いつでも移住できる自信がある。金もいくらかある。だが、急ぐ気はない。なんといっても妻の位牌を納めた仏壇をどうやって移住先に持っていくかが問題だ。盆や回忌ごとの法事に坊さんを呼ぶこともできない。うちは曹洞宗だ。ミラノにその宗派の坊さんがいるとは思えない。それにときどき子供が孫を連れて帰ってくる。そのときわしがいなかったらどう思うだろう。埼玉の実家は空き家で、おじいさんは一人でミラノに住んでいる、なんて孫に言ったら悲しむに違いない。移住はもう少し様子を見てから考えよう。
今日は疲れた。たくさん客を拾って普段より売り上げもいい。タクシー会社も喜んでくれるだろう」